Nox
Nox
『Nox』は、トラウマ、解離、そして存在と消失のあわいにある脆い境界を探求する、自伝的な没入型体験作品です。
本作は、監督自身が複雑性PTSDとともに生きてきた経験をもとに、アイデンティティの断片化、離人感、不思議の国のアリス症候群といった心理状態を、空間的な物語と身体的なインタラクションへと変換しています。
参加者は静かな声に導かれながら、トラウマ体験の内側から生まれた記憶、絵、音、意識の断片によって構成された、夢のような世界を進んでいきます。手は歪み、空間は崩れ、知覚は揺らぎ、参加者自身の身体もまた、現実が不安定になり、自己が溶け始める風景の一部となります。
コントローラーを使わないインタラクション、VRとMRの移行、そして親密な一人称の語りを通して、『Nox』は、トラウマを外側からただ観察するのではなく、それによって生み出される不安定な空間の内側へと参加者を招き入れます。
喪失、孤立、解離によって形づくられた世界のなかで、本作は、美しさや他者とのつながり、そして生き続けようとする意志へと向かう、静かな歩みを描いています。
Director's note
あなたは誰かの言葉に深く傷ついた瞬間を覚えていますか。人は、辛い記憶を忘れることで、前に進む力を得ると言われています。でも、もしその痛みが心の奥底に刻み込まれ、決して消えないとしたら?ほんの些細なきっかけで、埋もれていた古い記憶が鮮明に蘇る。それがPTSDの現実です。
Noxは、私自身が長期にわたるストレスによって深く傷ついた経験から生まれました。社会不安、幻覚、解離との闘いを通して、かつて私が見ていた世界と、見たかった世界を描き出しています。Noxは心の傷を抱えるすべての人に捧げる作品です。
私は日々この世界を地獄のように感じながら、同時にこの世界は美しいと信じたいと思っています。この矛盾した感覚こそが、Noxを作る原動力でした。VR/MRという身体ごと没入するメディアだからこそ、言葉では説明しきれない、私が見てきた世界の手触りを、そのまま誰かに手渡せるのではないかと思っています。
制作の期間は、症状と薬の副作用との戦いそのものでした。それでも「見返してやる!」という一心で、執念で完成させました。この作品は、多くの方々の協力と励ましによって、ようやくここまでたどり着きました。皆さまに届けられることを、心から嬉しく思います。
A controller-free VR/MR experience by Rio Nakada
Experience Design
『Nox』は、コントローラーを一切使用しない、身体性を伴う19分間のXR作品です。心理的な状態が、ハンドトラッキングによるインタラクション、空間オーディオ、リアルタイム3Dガウシアン・スプラッティング、そしてクロスモーダルなMR水系へと変換されます。
本作は「コントローラーを使わない」という唯一の制約のもとで構成されています。すべてのインタラクションは、素手のみで実行されます。5種類のハンドトラッキング・インタラクションが、3つのフェーズ(崩壊 → 断片化 → 再統合)を経て全13シーンにわたって展開され、VRからMRへの移行へと帰結します。
① バーチャル・スマートフォン・スクロール 日常的なジェスチャー。参加者は素手で仮想のスマートフォンをスクロールします。これにより、日常の身体的リアリティを基点として確立し、その後に続く崩壊を身体的に実感させます。
② 不思議の国のアリス症候群 参加者は自分の手を見つめます。Meta Quest 3のハンドトラッキングによって、その手はリアルタイムで膨張・歪曲していきます。これは視覚効果ではなく、監督が実際に体験した知覚障害の再構築であり、参加者はそれを観察するのではなく、内側で体験することになります。
③ ヘッドトラッキングによる解離 頭の向きに応じて視野が断片化します。ここでは意識的に手による入力を排除しており、「行為能力(エージェンシー)の喪失」そのものがインタラクションとなります。
④ 光粒子とのインタラクション 胎内のような環境の中で、粒子が特定のジェスチャーではなく、手の動きの方向や質に反応します。手は重力の源となります。このインタラクションは、断片化した自己の解放を演じます。
⑤ Tactus(触覚) — クロスモーダルMR水系 ヘッドセットがMRパススルーへと移行します。参加者自身の現実の部屋の中に、光り輝く水塊が浮遊して現れます。素手でそれを引き裂き、再び融合させます。参加者は頭を水の中に沈め、内部を覗き込むことも可能です。柔らかく、反応的で、有機的に変形するその視覚的挙動は、ハプティクス(触覚デバイス)なしで触覚的な印象を喚起するように設計されています。
④と⑤の間では、リアルタイム3Dガウシアン・スプラッティングでレンダリングされたフォトリアルなシーンが、断片化された内面世界から最終的な再統合へ向かう過程を示します。
技術スタック: Unity · Meta Quest 3(ハンドトラッキング + MRパススルー) · Windows PC (RTX 5080) · USB-C Linkケーブル(天井吊り下げ) · Spatialograph Maker by VoxelKei(3DGSレンダラー)
Creative Producer's Message
「Nothing About Us Without Us」──当事者が語る、新たな主体
『Nox』は、CPTSD、トラウマ、解離を抱える当事者であるナカダリオ自身が、監督・メインエンジニアとして企画・制作を主導し、完成させたXR映画です。
本作は、単に精神疾患を客観的に題材とした作品ではありません。その世界を生きる当事者自身が、自らの経験を、自らの表現として世界へ届ける作品です。近年、障害や精神疾患、マイノリティをめぐる表現において、「Nothing About Us Without Us(私たちのことを、私たち抜きに決めないで)」という理念が国際的に重視されています。長い間、精神疾患は医療者や研究者、あるいはフィクションの作り手によって外側から語られることが多く、当事者自身が表現の主体となる機会は限られてきました。しかし、その世界を最も深く知っているのは、その経験を生きてきた当事者です。『Nox』は、その当事者の視点から、トラウマの内面世界をXRというメディアを通して表現することを試みています。
精神疾患を「恐怖」として消費しない
映画やドラマでは、解離性同一性障害や人格解離は長年、恐怖やサスペンス、狂気、あるいは物語を反転させる装置として描かれてきました。こうした表現は強い印象を与える一方で、精神疾患への偏見や誤解を助長してきたことも指摘されています。『Nox』は、その視点とは異なるアプローチを選びました。本作に登場する解離した人格は、主人公を脅かす存在ではありません。過酷な体験を生き延びるために生まれた、防衛の存在として描かれます。これは、近年のトラウマ研究において、解離が「耐え難い体験に対する適応反応」と理解されている考え方とも重なります。物語の終盤、主人公は人格を打ち負かすのではなく、再会します。そして、自らの痛みを引き受け続けてきた存在として人格を理解し、受け入れていきます。
XRだからこそ共有できる内面世界
『Nox』は、精神疾患を説明するための作品ではありません。また、ショックや刺激を与えることを目的とした体験でもありません。観客は主人公と同じ空間に立ち、同じ世界を見つめ、同じ違和感を体験し、最後には人格との再会をともに経験します。他者の内面世界をスクリーン越しに眺めるのではなく、自らその世界の中へ入り、時間と空間を共有する。XRというメディアは、そのような主観的体験の共有を可能にします。
当事者が創作するということ
トラウマと向き合いながら長期間にわたり作品を制作し続けることは、大きな精神的・身体的負荷を伴います。ナカダリオは、監督としてだけでなく、メインエンジニアとして技術実装も担いながら、本作を完成へと導きました。このような制作は決して容易なものではなく、同様の事例も多くありません。しかし、本作が伝えたいのは、その希少性ではありません。重要なのは、精神疾患について語るとき、当事者自身の声と視点が表現の中心にあることです。『Nox』は、精神疾患を外側から観察する作品ではなく、当事者自身が内面世界を表現し、その体験を他者と共有する芸術作品です。私たちは、この作品が精神疾患をめぐる表現において、「恐怖」や「偏見」を超え、「共感」と「理解」のための新たな対話を生み出す一助となることを願っています。
Creator
ナカダリオ/Rio Nakada アーティスト、エンジニア、ディレクター
小中高を通じて長期にわたる不登校を経験。自宅で過ごす長い時間のなかで、プログラミングや映像制作、コンピュータグラフィックスを独学で学び、テクノロジーと表現への関心を深めてきた。その経験を創作の原点に、没入型テクノロジーを用いて、知覚、意識、記憶、身体感覚を探究する作品を制作している。 インタラクティブアート作品『Tactus』では、その成果を筆頭著者として芸術科学会NICOGRAPH2024で口頭発表し、デモ展示賞を受賞。作品制作と学術研究の両面から、没入型テクノロジーによる知覚や身体感覚の表現を探究している。 現在、慶應義塾大学環境情報学部に在籍。
待場勝利 Machiba Katsutoshi
プロデューサー
東京藝術大学院映像研究科非常勤講師。日本初のXR特化型国際映画祭「Beyond The Frame Festival」開催。 アメリカで映画製作を学ぶ。TVディレクター、20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパンで日本語版プロデューサー、 サムスン電子ジャパンではGearVRを担当。数々のVRプロジェクトをプロデュースし、国内外の映画祭で高評価を得る。2020年, 2021年, 2022 年, 2023年, 2024年に5年連続でベネツィア国際映画祭 VR部門「VENICE IMMAERSIVE」にコンペティション作品としてノミネート。
Staff
Actor / Animation: Rio Nakada
Modeling / Scenery: Rio Nakada
Music: brightwaltz
Interaction Developer: Rio Nakada
Technical Supporter: Yo Sasaki, Ken Sonobe,VoxelKei
Visual Effect: Kota Masuda
MA / Compositer: Rio Nakada
Producer: Katsutoshi Machiba,Yayoi Suzuki
Director: Rio Nakada
Cooperation
TOKYO NODE LAB, KST EVENTS, RHINO STUDIOS
経済産業省 令和5年度デジタル等クリエイター人材創出事業(映像・ゲーム等人材創出支援事業)
【創風】, 令和6年度経済産業省補正クリエイター・エンタメスタートアップ創出事業費『創風』